体罰に声をあげる権利を得たことで、学生たちには、大きな試練も与えられている
保護者の皆様の中には、今の学校の教育現場では確実に「体罰」として問題視されるような、「しごき」を受けられた方(またはそれを頻繁に目にしていた方)が多くいらっしゃるかと思います。
私自身、高校の数学の時間にはバイキンマンの気持ちが“痛い”ほど分かるくらいの鉄拳をくらったり、中学校の職員室では胸ぐらを掴まれながら宿題を提出しないことを問い質されている同級生を目撃したり、小学校の算数の時間には(理由は忘れましたが)1人ずつビンタされていったりと・・・そんな場面が当然の日常で、それが「学校」であり「先生たち」であると、当時は思っていました。
※手をあげたり、やたら怒鳴り散らしたりする先生ほど、生徒たちからは好かれていた気もしますね(笑)アメとムチの使い分けが絶妙に上手い、まさに職人技だったのではないでしょうか。
時代は進み、学校での教育の在り方は変わりました。そしてローギアではありますが、変わり続けています。
いまや「体罰」は、全国において「違法行為」と同等の存在です。
愛情と情熱を注いでいたはずの「しごき」も、危害を加えるだけの「体罰」としてまとめられます。
これについて、今の学生たち・保護者の皆様には「しごきを含む体罰」に対して、学校(先生たち)を相手にいつでも声をあげられる“権利”が認められた、と言ってもいいでしょう。
しかし、実社会がそうであるように、「権利の獲得」「権利の付与」にはトレードオフの関係になるものが必ず存在します。
学校の教育における、それはいったい何か。
それは、生徒たちに対する「強制力」ではないかと考えています。
もちろん、すべての「強制力」が無くなったかというと、決してそうではありません。
※例えば校則など「ルール・規範」が性質上持っている「強制力」は無くなりません。それは、人は生まれてからずっと「ルールは守るものである」と学び、刷り込まれ続けてきたからです。
「言ってもダメなら…」で発動していた「強制力」が無くなったということです。
学生たちは、先生たちの話す言葉から何が必要で何をすべきかを理解し、自分から行動を起こさないといけません。
「こっちだよ」と呼んでくれる声はあっても、腕を引っ張られることはないのです。
たとえ提出物をずっと忘れ続けても、宿題を全然しなくても、先生の再三の注意を聞かなくても、それがどれだけいけないことなのかは、自分で考え、自分で判断しなければいけないのです。
私は、今の学生たちはかなり厳しい試練を与えられていると感じています。
正解と不正解という2択しか知らない学生たちとって「自分で決めること」がいかに難しいかは、大人である私たちがいちばんよく分かっています。
子どもたちが直面する壁の乗り越え方を、どう伝えるか、どう伝えれば「自分から」乗り越えてくれるのか。
私たち大人たちは、子どもたちの「新しいサポートの仕方」を考えつかなければならない時代に、すでに到達しているのです。
今週も最後まで目を通して頂きありがとうございました!!
それでは来週も宜しくお願い致します!
※ちなみに、私は体力の無駄は嫌いなので、「体罰」否定派なのでご安心ください(笑)