いつもお世話になっております。ウィンドミルの榊です!今週も明るく元気に通塾してくれた塾生の皆さん、送迎など通塾をサポートしてくださった保護者の皆様、本当にありがとうございました!
「やればできる」は強者の理論
この入試期間、受験生への応援として又は勉強を頑張ろうとしている子どもたちへの応援として
「やればできる!」
という声掛けは控えるべきです。
これは学習塾や予備校の講師を務めていたり、スポーツ教室のトレーナーであったり、その他教育関係の業種に携わっていたりする方々の一定数内での共通認識だと僕は理解しています。
「やればできる!」という応援を控えるべき理由は何か?
それは「やってもできなかった」という場合があるからです。「それはただの努力不足だ」で一掃しようとしても経験の浅い子どもたちは努力不足だとは思えません。後述もしますが、彼らは彼らなりに努力したのです。
親や周りの大人たちの言葉は、子どもからすれば「世界の法則」です。
「やればできる!」と厚く応援され、自分なりに努力した結果「できなかった」となると、そこに起きた「矛盾」で己に絶望してしまう可能性もあります。
「やればできる」それが世界の法則と知る→自分なりに全力で頑張る→できなかった、やったのにできなかった→でも世界の法則は「やればできる」だった→そうか、僕はダメ人間なんだ
極端な流れで例えましたが、こうやって将来にも続く自信の喪失は生まれるのです。
※もちろん「できなかった」ときのフォローの入れ方次第で自信喪失は回避できます。
「やってもできなかった」場合には2つのケースがあると僕は考えています。
1つはシンプルに努力不足です。そして努力不足になる原因は2つあります。1つは情報不足です。どれくらいの時間を使い、どれくらいの量をやるべきかを知らなかったのです。求める結果には求められている行動量が必ずあります。それを知らずに「やった気になっていた」という状態です。
そしてもう1つは、自分の限界を把握していなかったことです。今の自分が本当はどれだけ努力できるのかを知らなかったのです。人は、自分の努力を自分で評価し、自分の限界を自分で決めます。だから、本当の限界を迎えていなくても「よし!今日はすごく頑張った!限界!今日はもうおしまい!」とセルフストッパーを簡単にかけられてしまうのです。
これらを踏まえて「やればできる!」と応援するのであれば、結果を出すのに「必要な量」と相手の「今の限界値」を加えて伝えるべきだと僕は考えます。
「やってもできかなかった」ケースの2つ目は、「本当にできない」場合です。
例えば、33歳の僕が今からどんなに素振りを頑張っても大谷選手のようにはなれません。どんなに走り込みをしてもウサイン・ボルトにはなれません。
個人が持つ限界に個人差があるように、その限界下で努力して得られる結果にも個人差があるのです。
このような理由から「やればできる!」という応援は安易に発するべきではないと僕は考えています。
「やればできる!」とは、個人差が存在するこの世界でアナタにだけ当てはまる「強者の理論」なのです。成功に再現性が無いように強者の理論にも再現性はありません。オリンピック選手の「夢をあきらめなければ…」も同様の強者の理論だと僕は捉えています。
子どもたちよりも社会経験が豊富な大人たちが発する言葉は、「今後の世界の法則」になり得ることを常に注意しなければなりません。
最後まで目を通して頂き、ありがとうございました!
来週も宜しくお願い致します!
☆☆☆今回と合わせて目を通して頂きたい過去メッセージ☆☆☆
【経験が大事な理由】[2021年7月3日配信メッセージ]
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